2010年4月27日火曜日

「ザ・コーブ」日本版 

OPSのJoeからこんなリンクが送られてきました。日本語版の約15分が無料で見られます。 15 minute Japanese cut available here for free

南アフリカ#1 Franschhoekとワインカントリー

ケープタウン国際空港から東へ車を走らせ30分弱で、目の前に葡萄畑が広がり始めます。

Franschhoekの1つ手前の街 Stellenbosch。ここは優秀な学生が集まる大学がある学園都市です。

白い壁と曲線が美しいこの建物は「ケープダッチ様式」と呼ばれるもの。これは長屋風の一般の家。

南アフリカの歴史を遡ると、1498年にポルトガル人バスコ・ダ・ガマが喜望峰を通過するインド航路を発見後、1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがこの地に到達。その後オランダ人移民によりケープ植民地が成立。アフリカーンス語という言語はオランダ語を基礎にしてできた言語で、南アフリカの公用語の1つです。

ここFranschhoekはアフリカーンス語で French cornerという意味だそうで、1688年に宗教戦争後フランスを逃れた約200人のユグノー(改革派教会)がこの地に落ち着き葡萄農園を始めたそうです。

何度も忘れかけましたが南半球は現在秋。太陽は北。一瞬混乱した私は「ここでは太陽は東に沈むってこと?」とマヌケな発言をし、ケヴィンに「バカ」と叱咤されました。

道に立つサインもフランス語だらけなのですが、現在ここに住むフランス人は4人だけだそうです。そのうちの2人と知り会いましたが、その1人が後ほど私達の旅で重要な人物となります。

ここで1泊したLe Petite Vigne。素晴らしいホリデイの始まりを予感させる宿でした。

チェックイン後、長旅の疲れも感じずさっそく予約をしていたレストランBread & Wineへ。南アフリカで最もグルメな街と言われるFranschshoek。期待はかなり大きい。

スイカのサラダと自家製サラミプレート。サラダの奥に見えるものは、ナスのペーストを使ったフラットブレッド。期待を裏切らず◎。見た目も美しいですが味もピカイチ。野菜の使い方が特にいいと思いました。

ワイナリーの一部のレストランだったので、食事とともにワインのテースティング。この国はとにかくワインが安い。4杯目を飲む頃には長旅の影響を感じ始め、まったりとした気分に。

ランチの予約が2時で、ディナーの予約が7時半。その間宿に戻ってしたことは昼寝だけ、、、。目が覚めたら夕焼け時でした。ランチで興奮して食べ過ぎたので、お腹を少しでも空かせるために次のレストランまでは20分程歩きました。(で、問題なく3コース食べた。←8コースのレストランはパスしました)

気になるきついドレス。翌朝はケヴィンと一緒にジョギング。前日食べたものが重かったです。

このエリアだけでもかなりの数のワイナリーがあり、ある程度目星は付けていたものの、結局ジョギング中に見つけた小さなワイナリーに後ほど戻りテースティングをしました。年間5000本しか生産していないという、ブティーク・セラーです。1ケース(6本)をアメリカに送ってもらうことにしましたが、送料込みでたった200ドルちょっと。税金はデンバー空港で受け取り時に払います。

ところで、ケヴィンの後ろで寝そべっているのはドーベルマンです。

ランチも素敵なワイナリーのテラスで。その後Simon's Townへ出発。

南アフリカ旅行

25日に南アフリカから帰ってきました。14日に夢にも思わぬアイスランド火山噴火。そのニュースを聞いた時はインターネットが使えずTVもない場所にいたので、1日で収まったものと思い込んでいました。ところがロンドンからやってくるはずだった10人の招待客が17日の結婚式にこられず、そこで初めてヒースローが数日間も閉鎖されている事実を知り、19日にTVで初めてヨーロッパ内の大混乱と噴火の様子を見て驚いた私達でした。

今年に入ってケヴィンは、東海岸と南部の記録的大雪やフロリダでの嵐、そして先月はデンバーでの大雪でひどい目にあっており、今回私もケヴィンの悪運の波に飲み込まれてしまうかと焦りましたが、どうやら私の運の方が強かった模様(と、自分で思っている)。

ちなみに24日のケープタウン発ロンドン行きを逃したら、最先便は5月7日でした。ケヴィンはもちろん仕事を心配していましたが、私の大きな心配事はこれで夢のSt.Barthelemy行きを逃すこと、、、次の出発は4月30日なのです。そんなわけで、危ない橋をぎりぎり渡った私達でした。

ここで私達の旅程のサマリーを。

まずケープタウンに飛び、ケープタウンの東のウェスターンケープ州のFranschhoekで1泊後、ケープ半島(下図)のSimon's Townで2泊。その後ダーバンへ約2時間の飛行で移動。そこから西へ約2時間車で移動し、結婚式が行われたMidlandsで7泊。最終日レソト王国へ1日ドライブ。ケープタウンに再び戻り、Camps Bayで3泊。

<ケープタウン近郊>

Simon's Town:ここからBoulders Beachまでカヤックでペンギンツアー、ボートでアザラシ見学、喜望峰(Cape of Good Hope)でハイキング

Camps Bay:ケープタウン市内から車で10分ほどの高級住宅街。ここを拠点にして3日間観光。

Table Mountain:頂上が平な山なのでこう呼ばれる。ケープタウンのシンボル。
Chapman's Peakドライブコース
Constancia:南アフリカにおけるワイン発祥の地
Khayelitsha:黒人強制居住地域の1つ
Robben island:ロベン島。元政治犯の強制収容所。ネルソン・マンデラが収監されていた所。

これに沿って私達の南ア旅行について書いて行きたいと思います。

2010年4月20日火曜日

南アフリカ旅行 途中経過

4月10日ーロンドンでの9時間のトランジット時間を有効活用し、お気に入りのフードマーケットへ空港から直行し、その後昔住んでいたウォータールーまでテムズ沿いを散歩。友人の家に寄りのんびりしすぎ,ヒースローで駅からゲートまで全速力で走るはめに。

ロンドンからケープタウンまで12時間ひたすら南へ。時差は1時間。普段8時間から16時間の時差を超えて長距離飛行をしているので、ほぼ同じタイムゾーンで12時間というのはちょっと不思議な感じがしました。

4月11日ーケープタウン空港から約1時間東のワインカントリーへ直行。Franschhoekはまるでフランスのような街でした。

4月13日ーSimon's Townでシーカヤック。ここには暖かい気候を好むペンギン達が住んでいます。シーカヤックで海からペンギン達を観察。

4月14日ーそしてついに結婚式があるMidlandsというエリアに到着。ここはまるでイギリスの田舎のよう。そして、ブライズメイドには様々な仕事が与えられたのでした、、、。詳細はまた後ほど。

4月17日ー2日間のストレスフルな準備の後、結婚式当日。最後まで気の抜けないブライズメイド。

でも、世の中なんとかなるものです。

ブライズメイドのドレスは結婚式参加者に大好評。(しかし、抱える悩みは4人とも同じだった!)
そして約12時間に渡る結婚式。すばらしい式と披露宴でした。

4月19日ー結婚したカップルを含め4カップルで2日間の旅行。ここもまるでイギリスの田舎です。

南半球は現在秋なのでした。

4月20日ー4カップルでLesotho王国へデイトリップ。

そして、私達のフライトは24日のロンドン経由アメリカ行き。無事に帰れるかどうかビミョーな立場なのでした。。。

2010年4月8日木曜日

日本と日本のイルカの行く末 6 <ザ・コーブ>

先月、この映画製作チームの1人であるJoseph Chisholm氏に個人的に会って話をする機会に恵まれました。この映画を観た方は「ああ、あれね」とピンと来るかと思いますが、彼は何十箱になったあの大量の機材を手配した人で、実際にカメラを回した人の1人です。この映画の製作のために、2年間で6回日本に足を運んだそうです。

天気の良い午後に、ボールダー市内のカフェで落ち合いました。約2時間の対談は有意義なものでしたが時間が足りず、そこから広がった新たな疑問や質問は持ち越すことになりました。Chisholm氏から、「これはOPS(海洋保護協会=フィルム制作団体)を代表しての答えであり、公表してもらって構わない」という了承を得たので、とりあえず今回の対談をまとめました。

Q:撮影前に太地町との交渉はどのように行われたのか?

A:2日間に渡り約8時間、役場と漁業組合との交渉に臨んだが、残念ながら望んでいた結果は出なかった。我々は漁師達の生の声も普段の生活を通じて撮影したいと思ったが、それも却下された。この段階ですでにかなりの時間が経過していたため、許可は降りなかったが撮影を進めることにした。もっと踏み込んだ話し合いをしたかったが、「イルカ漁は長年続いていることだから」というところで行き詰まり、その次のレベルに話を進めるのが困難だった(つまり、海洋資源保護のレベルや水銀問題のレベル、ということ)。

実はOPSは、イルカを海へ逃がすことと引き換えに、殺して売った場合と同額を支払うという条件の提示もした。しかしそれも「お金の問題ではない」と却下された。

Q:通訳が始めの数週間しか一緒に行動しなかったと聞いたが、通訳なしでは住民との意思疎通が困難だったのではないか?

A:いろいろな手配が必要な段階と、太地町との交渉にはずっと通訳が居た。しかし、自分達で(密かに)撮影を進める段階では通訳は不要であり、(いろいろな問題もあったので)自分達と一緒に行動することによって日本人をトラブルに巻き込むこともできないと思った。

Q:違法に撮影された映画、という意見に対するコメントは?

A:「立入り禁止」になっている場所は国立公園の中にあり、津波が発生した時に太地町の住民の避難場所になっているところでもある。「立入り禁止」にしたのは漁師達(漁業組合?)なので、実際には法的な効力はないはずだ。なので違法と言うのはおかしい。その他は公道で撮影したので違法ではない。それ以外(立入り禁止区域以外か太地町以外かは不明)はすべて撮影許可をもらい、時には案内人付きで撮影を進めた。我々はできるだけ日本を知るために、北は北海道から南は宮崎まで各地を旅していろいろな場所で撮影をし、様々な美しい映像をフィルムに収めた。

Q:インタビューを映画に使われた人達が、「インタビュー時には、自分がこのような映画のためのインタビューを受けているとは知らされていなかった」と言っているようだが、実際はどうだったのか?

A:ドキュメンタリーというのは、撮影をしている時には実際に出来上がる作品がどんなものになるかがわからないことが多い。自分も今回かなりの量の撮影をしたが、テーマに沿って撮影をしていたものの、大きな図が見えて来たのは後になってからだった。確かに「環境問題の映画のため」ということでインタビューを行ったが、我々は嘘をついたわけではない。自分が各インタビュー時にカメラを回したのではっきり言うが、インタビューに応じた人々は、事前に「この映像は永久にOPSが所有し、使用する権利がある」という書類に同意するサインをしている。

Q:私は個人的に映画の始まり方に不快感を感じた。その理由は活動家のリック・オバリー氏が「漁師達は私のことを殺したいと思っている」というような、過激な発言のせいだった。私は彼のそんな発言は、地元への敬意の欠如に思えたが。

A:彼は究極の活動家なので、過激な発言をしがちだということは認める。しかし、我々は太地町で実際に起こっていることを撮影した。我々の撮影に反対していた人達の行動は映画の中の通りだが、実は彼らの更に攻撃的な映像も持っている。それを映画に使うこともできたが、あえて使わないことにした。

Q:OPSとシーシェパードを混同している日本人が少なくないようで(映画の中にシーシェパードの代表のインタビューもある)、中にはこの映画はシーシェパードによって作られたものだと思っている人もいるようだが。

A:えっ?(驚きの表情)そんな話は聞いたことがない。

Q:(彼からの質問)アカデミー賞は日本で一番視聴率が高い番組だと聞いたが、それは本当か?

私はそうは思えない、と答えましたが、実際の視聴率はどれくらいなのでしょうか?

Chisholm氏は私の想定するところでは30代後半くらい。カリブ海で長年のセーリングやスキューバダイビングの経験があり、それをきっかけに海洋資源保護の重要性を意識するようになったそうです。ボールダーの住民らしく環境問題に敏感で、家の家庭菜園で野菜を育て、できるだけゴミを作らない努力もしていると言っていました。「昔は牛肉も大好きだったんだけどね」と小さな声でこっそりと言い、「世界に向けてメッセージを送る者として矛盾があってはいけないから、食生活もかなり変えたんだ」。

OPSは小さな非営利団体で、この映画の制作費の大部分は海洋資源保護に関心を持つアメリカ人実業家によって支援されました。Chisholm氏の発言に対する受け止め方は人それぞれだと思います。彼と会った後、更に太地町側の話を聞いてみたくなりました。