2010年5月12日水曜日

セント・バーツ #1 日程

まず、このエリアの地図から。一番右の長い矢印がセント・バーツ。そこから左へ セント・マーチン、プエルト・リコ、左上がフロリダ半島。(それにしても、いろいろな国がカリブ海の島を手に入れたものですね。)

中心地グスタビアの港

<日程>

*参加者はアメリカから6組、イギリスから4組、単独参加の男性3人とCEO(最高経営責任者)カップルの計25人。この旅行は、昨年会社に貢献したトップセールスマンのためのご褒美旅行。15ヴィラしかないホテルは貸し切り状態でした。

5月1日

フロリダからプエルト・リコの首都サン・フアンに飛び、そこからチャーター機でセント・バーツへ
Hotel Le Toinyにチェックイン後、ウェルカムドリンク&集合写真
9pm 島で一番”ホット”なレストランでディナー&ダンシング ←これがすごい展開に

サン・フアンから他の5人と合流し、チャーター機で1時間半のカリブ上空の旅

5月2日

午前中は自由行動だったため、2日酔いで目覚めた後、しばらくホテルの近くのビーチでスノーケリング(しかし魚は全く見られず、荒波の中でもがいただけの私)
ランチ&午後のウォーターアクティビティが別のホテルのビーチでお膳立てされており、ケヴィンはパドル・ボードとウィンドサーフィンを体験
ディナーは自由行動

ビーチサイドのレストランは砂の上に直接テーブルが置かれていました

5月3日

レンタカーが全員に用意され、それを使って自由行動
4pm ジェットスキーに乗りたい人集合(私達はパス)
5pm サンセットクルーズ
8pm ディナー ←その後CEOの鶴の一声で、私達のヴィラで2時までドリンクをホストするはめに

この小さな入り江を眺める高台に、以前ロックフェラーが所有していたというお屋敷が売りに出ていました

5月4日

ケヴィン:男性陣とセント・マーチンまでボートで行き、そこでスピードボートとヨットを体験
私:女性陣とスパ&ランチ、その後CEOのヴィラで女性だけ集まりプールサイド・パーティー ←ここで強気な妻&GF達の発言で盛り上がる
9pm ホテルにてフェアウェル・ディナー

スピートボートを楽しむ男性陣

5月5日

昼前にセント・マーチンまでボートで行き、そこから飛行機でフロリダへ

Hotel Le Toinyのインフィニティープール。フェアウェルディナーの後、洋服のままここに飛び込んでいる人(=ケヴィンのボス)がいました。

一連の旅行、終了。

Saint Barthélemy(セント・バーツ)への4泊5日の旅はあっという間に終わってしまい、ついに現実の世界へ引き戻された私達。南アとこの旅の間隔が4日間しかなかったので、2つの旅の余韻がヘンに入り交じった不思議な気分に陥っています。

約1ヶ月間気温25℃から30℃の場所にいましたが、今朝起きて一番にしたことは雪かき。こんなに遅い雪はコロラドに7年住んでいて初めてです。今年はなかなか気温が上昇しないコロラド。アシャにもまだしっかりと冬毛が生えています。

1ヶ月美食が続き贅肉を気にするケヴィン(珍しい。ついに彼もそんな歳になった?)の懇願で、家に帰って来てから野菜を主食にしている私達です。普段だったら目を輝かせていただく高級なフランス料理も、何日も続けて食べると日本人には結構苦しい。しかも南アでの食事があまりにもおいしかったので、恐れ多くも最後の方はフレンチへの敬意が薄れ「ふん、これはイマイチね」(←自分で払っていないからそんなことを言える)なんて偉そうなことを言うようになり、我ながら「人間って恐ろしい生き物だ」とつくづく思った私達でした。

こんな機会がなければ一生経験することのできなかったであろう Saint Barthélemy で垣間見た非現実的な世界。南アは後回しにしてまずはこちらからアップしていきます。

2010年4月27日火曜日

「ザ・コーブ」日本版 

OPSのJoeからこんなリンクが送られてきました。日本語版の約15分が無料で見られます。 15 minute Japanese cut available here for free

南アフリカ#1 Franschhoekとワインカントリー

ケープタウン国際空港から東へ車を走らせ30分弱で、目の前に葡萄畑が広がり始めます。

Franschhoekの1つ手前の街 Stellenbosch。ここは優秀な学生が集まる大学がある学園都市です。

白い壁と曲線が美しいこの建物は「ケープダッチ様式」と呼ばれるもの。これは長屋風の一般の家。

南アフリカの歴史を遡ると、1498年にポルトガル人バスコ・ダ・ガマが喜望峰を通過するインド航路を発見後、1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがこの地に到達。その後オランダ人移民によりケープ植民地が成立。アフリカーンス語という言語はオランダ語を基礎にしてできた言語で、南アフリカの公用語の1つです。

ここFranschhoekはアフリカーンス語で French cornerという意味だそうで、1688年に宗教戦争後フランスを逃れた約200人のユグノー(改革派教会)がこの地に落ち着き葡萄農園を始めたそうです。

何度も忘れかけましたが南半球は現在秋。太陽は北。一瞬混乱した私は「ここでは太陽は東に沈むってこと?」とマヌケな発言をし、ケヴィンに「バカ」と叱咤されました。

道に立つサインもフランス語だらけなのですが、現在ここに住むフランス人は4人だけだそうです。そのうちの2人と知り会いましたが、その1人が後ほど私達の旅で重要な人物となります。

ここで1泊したLe Petite Vigne。素晴らしいホリデイの始まりを予感させる宿でした。

チェックイン後、長旅の疲れも感じずさっそく予約をしていたレストランBread & Wineへ。南アフリカで最もグルメな街と言われるFranschshoek。期待はかなり大きい。

スイカのサラダと自家製サラミプレート。サラダの奥に見えるものは、ナスのペーストを使ったフラットブレッド。期待を裏切らず◎。見た目も美しいですが味もピカイチ。野菜の使い方が特にいいと思いました。

ワイナリーの一部のレストランだったので、食事とともにワインのテースティング。この国はとにかくワインが安い。4杯目を飲む頃には長旅の影響を感じ始め、まったりとした気分に。

ランチの予約が2時で、ディナーの予約が7時半。その間宿に戻ってしたことは昼寝だけ、、、。目が覚めたら夕焼け時でした。ランチで興奮して食べ過ぎたので、お腹を少しでも空かせるために次のレストランまでは20分程歩きました。(で、問題なく3コース食べた。←8コースのレストランはパスしました)

気になるきついドレス。翌朝はケヴィンと一緒にジョギング。前日食べたものが重かったです。

このエリアだけでもかなりの数のワイナリーがあり、ある程度目星は付けていたものの、結局ジョギング中に見つけた小さなワイナリーに後ほど戻りテースティングをしました。年間5000本しか生産していないという、ブティーク・セラーです。1ケース(6本)をアメリカに送ってもらうことにしましたが、送料込みでたった200ドルちょっと。税金はデンバー空港で受け取り時に払います。

ところで、ケヴィンの後ろで寝そべっているのはドーベルマンです。

ランチも素敵なワイナリーのテラスで。その後Simon's Townへ出発。

南アフリカ旅行

25日に南アフリカから帰ってきました。14日に夢にも思わぬアイスランド火山噴火。そのニュースを聞いた時はインターネットが使えずTVもない場所にいたので、1日で収まったものと思い込んでいました。ところがロンドンからやってくるはずだった10人の招待客が17日の結婚式にこられず、そこで初めてヒースローが数日間も閉鎖されている事実を知り、19日にTVで初めてヨーロッパ内の大混乱と噴火の様子を見て驚いた私達でした。

今年に入ってケヴィンは、東海岸と南部の記録的大雪やフロリダでの嵐、そして先月はデンバーでの大雪でひどい目にあっており、今回私もケヴィンの悪運の波に飲み込まれてしまうかと焦りましたが、どうやら私の運の方が強かった模様(と、自分で思っている)。

ちなみに24日のケープタウン発ロンドン行きを逃したら、最先便は5月7日でした。ケヴィンはもちろん仕事を心配していましたが、私の大きな心配事はこれで夢のSt.Barthelemy行きを逃すこと、、、次の出発は4月30日なのです。そんなわけで、危ない橋をぎりぎり渡った私達でした。

ここで私達の旅程のサマリーを。

まずケープタウンに飛び、ケープタウンの東のウェスターンケープ州のFranschhoekで1泊後、ケープ半島(下図)のSimon's Townで2泊。その後ダーバンへ約2時間の飛行で移動。そこから西へ約2時間車で移動し、結婚式が行われたMidlandsで7泊。最終日レソト王国へ1日ドライブ。ケープタウンに再び戻り、Camps Bayで3泊。

<ケープタウン近郊>

Simon's Town:ここからBoulders Beachまでカヤックでペンギンツアー、ボートでアザラシ見学、喜望峰(Cape of Good Hope)でハイキング

Camps Bay:ケープタウン市内から車で10分ほどの高級住宅街。ここを拠点にして3日間観光。

Table Mountain:頂上が平な山なのでこう呼ばれる。ケープタウンのシンボル。
Chapman's Peakドライブコース
Constancia:南アフリカにおけるワイン発祥の地
Khayelitsha:黒人強制居住地域の1つ
Robben island:ロベン島。元政治犯の強制収容所。ネルソン・マンデラが収監されていた所。

これに沿って私達の南ア旅行について書いて行きたいと思います。

2010年4月20日火曜日

南アフリカ旅行 途中経過

4月10日ーロンドンでの9時間のトランジット時間を有効活用し、お気に入りのフードマーケットへ空港から直行し、その後昔住んでいたウォータールーまでテムズ沿いを散歩。友人の家に寄りのんびりしすぎ,ヒースローで駅からゲートまで全速力で走るはめに。

ロンドンからケープタウンまで12時間ひたすら南へ。時差は1時間。普段8時間から16時間の時差を超えて長距離飛行をしているので、ほぼ同じタイムゾーンで12時間というのはちょっと不思議な感じがしました。

4月11日ーケープタウン空港から約1時間東のワインカントリーへ直行。Franschhoekはまるでフランスのような街でした。

4月13日ーSimon's Townでシーカヤック。ここには暖かい気候を好むペンギン達が住んでいます。シーカヤックで海からペンギン達を観察。

4月14日ーそしてついに結婚式があるMidlandsというエリアに到着。ここはまるでイギリスの田舎のよう。そして、ブライズメイドには様々な仕事が与えられたのでした、、、。詳細はまた後ほど。

4月17日ー2日間のストレスフルな準備の後、結婚式当日。最後まで気の抜けないブライズメイド。

でも、世の中なんとかなるものです。

ブライズメイドのドレスは結婚式参加者に大好評。(しかし、抱える悩みは4人とも同じだった!)
そして約12時間に渡る結婚式。すばらしい式と披露宴でした。

4月19日ー結婚したカップルを含め4カップルで2日間の旅行。ここもまるでイギリスの田舎です。

南半球は現在秋なのでした。

4月20日ー4カップルでLesotho王国へデイトリップ。

そして、私達のフライトは24日のロンドン経由アメリカ行き。無事に帰れるかどうかビミョーな立場なのでした。。。

2010年4月8日木曜日

日本と日本のイルカの行く末 6 <ザ・コーブ>

先月、この映画製作チームの1人であるJoseph Chisholm氏に個人的に会って話をする機会に恵まれました。この映画を観た方は「ああ、あれね」とピンと来るかと思いますが、彼は何十箱になったあの大量の機材を手配した人で、実際にカメラを回した人の1人です。この映画の製作のために、2年間で6回日本に足を運んだそうです。

天気の良い午後に、ボールダー市内のカフェで落ち合いました。約2時間の対談は有意義なものでしたが時間が足りず、そこから広がった新たな疑問や質問は持ち越すことになりました。Chisholm氏から、「これはOPS(海洋保護協会=フィルム制作団体)を代表しての答えであり、公表してもらって構わない」という了承を得たので、とりあえず今回の対談をまとめました。

Q:撮影前に太地町との交渉はどのように行われたのか?

A:2日間に渡り約8時間、役場と漁業組合との交渉に臨んだが、残念ながら望んでいた結果は出なかった。我々は漁師達の生の声も普段の生活を通じて撮影したいと思ったが、それも却下された。この段階ですでにかなりの時間が経過していたため、許可は降りなかったが撮影を進めることにした。もっと踏み込んだ話し合いをしたかったが、「イルカ漁は長年続いていることだから」というところで行き詰まり、その次のレベルに話を進めるのが困難だった(つまり、海洋資源保護のレベルや水銀問題のレベル、ということ)。

実はOPSは、イルカを海へ逃がすことと引き換えに、殺して売った場合と同額を支払うという条件の提示もした。しかしそれも「お金の問題ではない」と却下された。

Q:通訳が始めの数週間しか一緒に行動しなかったと聞いたが、通訳なしでは住民との意思疎通が困難だったのではないか?

A:いろいろな手配が必要な段階と、太地町との交渉にはずっと通訳が居た。しかし、自分達で(密かに)撮影を進める段階では通訳は不要であり、(いろいろな問題もあったので)自分達と一緒に行動することによって日本人をトラブルに巻き込むこともできないと思った。

Q:違法に撮影された映画、という意見に対するコメントは?

A:「立入り禁止」になっている場所は国立公園の中にあり、津波が発生した時に太地町の住民の避難場所になっているところでもある。「立入り禁止」にしたのは漁師達(漁業組合?)なので、実際には法的な効力はないはずだ。なので違法と言うのはおかしい。その他は公道で撮影したので違法ではない。それ以外(立入り禁止区域以外か太地町以外かは不明)はすべて撮影許可をもらい、時には案内人付きで撮影を進めた。我々はできるだけ日本を知るために、北は北海道から南は宮崎まで各地を旅していろいろな場所で撮影をし、様々な美しい映像をフィルムに収めた。

Q:インタビューを映画に使われた人達が、「インタビュー時には、自分がこのような映画のためのインタビューを受けているとは知らされていなかった」と言っているようだが、実際はどうだったのか?

A:ドキュメンタリーというのは、撮影をしている時には実際に出来上がる作品がどんなものになるかがわからないことが多い。自分も今回かなりの量の撮影をしたが、テーマに沿って撮影をしていたものの、大きな図が見えて来たのは後になってからだった。確かに「環境問題の映画のため」ということでインタビューを行ったが、我々は嘘をついたわけではない。自分が各インタビュー時にカメラを回したのではっきり言うが、インタビューに応じた人々は、事前に「この映像は永久にOPSが所有し、使用する権利がある」という書類に同意するサインをしている。

Q:私は個人的に映画の始まり方に不快感を感じた。その理由は活動家のリック・オバリー氏が「漁師達は私のことを殺したいと思っている」というような、過激な発言のせいだった。私は彼のそんな発言は、地元への敬意の欠如に思えたが。

A:彼は究極の活動家なので、過激な発言をしがちだということは認める。しかし、我々は太地町で実際に起こっていることを撮影した。我々の撮影に反対していた人達の行動は映画の中の通りだが、実は彼らの更に攻撃的な映像も持っている。それを映画に使うこともできたが、あえて使わないことにした。

Q:OPSとシーシェパードを混同している日本人が少なくないようで(映画の中にシーシェパードの代表のインタビューもある)、中にはこの映画はシーシェパードによって作られたものだと思っている人もいるようだが。

A:えっ?(驚きの表情)そんな話は聞いたことがない。

Q:(彼からの質問)アカデミー賞は日本で一番視聴率が高い番組だと聞いたが、それは本当か?

私はそうは思えない、と答えましたが、実際の視聴率はどれくらいなのでしょうか?

Chisholm氏は私の想定するところでは30代後半くらい。カリブ海で長年のセーリングやスキューバダイビングの経験があり、それをきっかけに海洋資源保護の重要性を意識するようになったそうです。ボールダーの住民らしく環境問題に敏感で、家の家庭菜園で野菜を育て、できるだけゴミを作らない努力もしていると言っていました。「昔は牛肉も大好きだったんだけどね」と小さな声でこっそりと言い、「世界に向けてメッセージを送る者として矛盾があってはいけないから、食生活もかなり変えたんだ」。

OPSは小さな非営利団体で、この映画の制作費の大部分は海洋資源保護に関心を持つアメリカ人実業家によって支援されました。Chisholm氏の発言に対する受け止め方は人それぞれだと思います。彼と会った後、更に太地町側の話を聞いてみたくなりました。

2010年3月30日火曜日

あと10日

ずっと先だと思っていた南アフリカ共和国行きが、あと10日に迫りました。

航空券の予約をした時はあまり深く考えていなかったのですが、よく考えてみると私達が選んだルートは結構きつい。金曜日の朝に出発の、デンバー/ワシントンDC/ダカール/ヨハネスブルク/ケープタウンというルートだと、翌日土曜日の夕方に現地着だったのですが、金曜日仕事をしたいというケヴィンの要望と、ロンドンで友達に会いたいという私の希望で、デンバーを金曜日の夜出発し、9時間のフライト後ロンドンに土曜日の昼着。9時間のトランジット後に12時間のフライトで日曜日の午前10時にケープタウン着、という機内2連泊という旅程になったのでした。この歳になってそんなことをして大丈夫だろうか?

結婚する友達の勧めで、到着後はそのままワイナリーが密集するエリアに行き、そこでB&Bに泊まることにしました。「現地に着いてすぐにワインテースティング?」と当初はあまりしっくりこない日程でしたが、改めて考えると、長旅後ちょろっとワインを飲んで昼寝をし「南アのグルメの中心」と言われる街でのんびりディナーを楽しむ、というのは悪くないアイデアです。

しかし、新たな問題が。

金曜日にお直しが終わったドレスを取りに行きました。前にも書きましたが、このドレスはストラップがないドレスなので、私は大きな不安を抱えていました。デンバーのドレスショップで紹介してもらった人は、たまたまうちから車で数分のところに住んでいる年配のイギリス人女性。「大丈夫。私がなんとかしてあげるから」と言いながらいろいろ手を加えてくれました。

とにかく人前でドレスがずり落ちるという事態を避けるために、幅をかなりつめてもらいました。そしてストンとした体型を誤摩化すために、マーメイド型を更に強調するようにも手を加えてもらいました。試着してみると、「まあ、これならなんとかなるな」と思ったと同時に「しかし、このドレスを着る前と着ている間に物を食べても大丈夫だろうか?」という不安が頭をよぎりました。それほど上半身部分がきつくなってしまったのです。

おばさんも後ろのジッパーを手伝いながら「ちょっとでも太ったら大変ね。まあ、あなたが急に1ポンドでも太る姿はあまり想像できないけど。ドーナツなんかは食べちゃダメね」

ということで、Franschhoekというまるでナパバレーのような南アのグルメキャピタルで、5コースもしくは8コースのフレンチを予約したい、と思いつつ、きちきちのドレスの事を考えると躊躇ってしまう私がいるのでした。食べた後数日狂ったように走るかしばらく摂食か?でも、いざ結婚式のレセプションでの食事は入るだろうか?メニューが決まった時に友達が見せてくれたのですが、これもすごくゴージャスなメニューなのです。力を入れた時にはち切れないように、おばさんがドレスをしっかりと縫ってくれたことを祈るばかりです。

取り外しが可能なストラップもつけてもらいました。式と写真撮影はストラップ無、レセプションはストラップ有で行こうと思います。

2010年3月29日月曜日

本日東京で『ザ・コーブ』のスクリーニング

私も先ほど知ったのですが、本日(日本時間30日)19時より三鷹で『ザ・コーブ』のスクリーニングが行われるようです。無料です。詳細はこちら

2010年3月25日木曜日

海洋資源を巡る論争で、日本のプロパガンダを見た

私はたまたま日本の報道と欧米のそれを比較できる環境にいるので、時々国内と国外の報道の格差を見て、驚くことがあります。

先週大西洋のクロマグロの国際取引禁止提案が委員会で否決され、日本はほっと胸をなで下ろしたようですが、「大西洋に限らず、太平洋やインド洋でも、日本が資源管理のためのリーダーシップを発揮していく責任が生まれた」など言っている場合ではないと思います。タイセイヨウクロマグロの数は1957年から約75%も減少しており、特に激減は過去10年間に起こっているようで、獲れる魚のサイズもどんどん小さくなっています。そして、クロマグロの約8割が日本によって消費されているのは、不動の事実です。しかし、このままではあと数年でクロマグロの商業漁業が成り立たなくなる可能性が高いという危機感を、日本のメディアからはほとんど読み取れません。

”科学的根拠に基づく意見に真っ向から反対して日本が手に入れた勝利は、クロマグロが今後生き残るかどうかという疑問を生んだだけでなく、果たして良識というものが種の絶滅を防げるのかどうか、という疑問も生んだ”(英 タイムズ紙)

Japan lands a death sentence for the bluefin

"誰も日本が取引禁止案に同意するとは期待していなかったが、クロマグロの個体数回復のための禁輸案が速急に必要なのは明白なのにも関わらず、日本は「乱獲がこの種の絶滅の危機を招いている事実」に対する討論をすることにすら猛烈に抵抗した”(インド エコノミックタイムズ)

Tuna battles and culinary extinctions

”政府が科学的事実を知っておきながらそれを無視するとは、非常に無責任だ”(AP通信)

Export ban on Atlantic bluefin tuna rejected

農相は大差での否決後に「資源管理をしっかりやるという日本の姿勢が理解された。想像以上の結果が出た」と語ったようですが、私が読んだ各国の報道ではそんな解釈は見られません。各国のメディアは「日本政府はアフリカの国々と裏工作した」と報道しており、AP通信は、「日本政府は水曜日の晩にレセプションを開き、まだどちらに投票するか決まっていない使節を本マグロ寿司を含んだ晩餐でもてなした」とも報道しています。

日本政府はクロマグロ漁に問題があることは認めているが、大西洋まぐろ類保存国際委員会(ICCAT)が設定した漁獲枠をさらに厳しくすることで解決できると主張しており、野生動物のためにあるワシントン条約(CITES)が、マグロを規制するのはおかしいとも主張しています。しかし今回この問題がCITESに持ち込まれた経緯は、ICCATの漁獲規制が機能していないため保護が全く追いついておらず、日本政府はそれを承知でこのような主張をしている、と指摘されています。

日本のメディアはどうしてしまったのでしょうか?どこを調べても政府が言っていることをそのまま伝えているだけのものばかりで、海外のメディアが報道しているような科学的な根拠をもとにした報道がほとんど見当たらないのです。そんな中で、やっと視点が異なる記事を日本語で見つけました。

”クロマグロ「浮かれ報道は危ない」 途上国に「借り」、そのツケは”

マグロ漁のニュースの数日後、次に日本以外を駆け巡ったニュースは、中国と日本が先導して絶滅の危機に瀕しているサメ4種の輸入規制を否決させた、というものでした。ちなみにこれは、サメのヒレだけを切り取りサメ自体は生きたまま海に捨てるという方法の、フカヒレ漁の規制に反対するということです。

最近イルカのことを論じている私がこんなことを書くと、「欧米人の価値観の影響を受け過ぎ」と言われるかもしれませんが、私は思うのです。きっと日本にいる人達の多くは、こんなことは何も知らずに生活しているのだろうな、と。私のような意見を聞いても、「欧米人は日本人の食べるものに対して何でもケチをつける」というレベル止まりの場合が多いのではないか、と。なぜなら、情報がそういう思考に傾くように流れているとしか思えないのです。

冷静に考えてみて下さい。「ジャパンバッシング」「日本の食文化」という反論は、科学的裏付けによって保護されるべき野生動物や海洋資源を乱獲する理由になるのでしょうか? 失うものの大きさを考えると、私は今回の結果が”欧米諸国に対する勝利”とは言い難い気がするのです。

2010年3月19日金曜日

雲泥の差

今週は昨日まで非常に気候が良く、3日間は最高18℃くらいまで気温が上がりみんなご機嫌。私もフロントデッキをきれいにして、アンブレラをテーブルにセットし、結構な時間を外で過ごしました。我が家はどちらかというと寒い家なので、こういう時は外の方が暖かいのです。 昨日バスに乗って街に出かけると、大学周辺を歩く女の子達の服装はまるでビーチホリデイ。私は長袖の2枚重ねでしたが。彼らと我々日本人の体感温度はかなり違うと思います。日本のように「衣替え」という観念もないので、12月でも暑ければ半袖ビーチサンダル、と勝手気ままなのがアメリカ。

前に座った子もこんなに涼しい格好。このワンピースの丈は膝の上。「夏になったら一体何を着るんだろうねぇ」と友達は言う。

そして今朝起きると予報どおりの雪。現在夕方6時で積雪量は20数センチです。明日は晴れという予想なので、この雪も一気に融けることでしょう。ちなみに、この学区も来週月曜日からしばらく春休みです。

2010年3月15日月曜日

誕生日の週末

実はこのドタバタだった2日間のことを細かく書こうかと思っていたのですが、「まあ、いっか」という気分になってきました。

土曜日に帰って月曜日にまた出張に出発だったので、コロラドにいる短時間にあれもこれもやりたい、という普段に輪をかけて予定を詰め込もうとしたケヴィンの行動、そして振り回された私達の週末はご想像におまかせすることにして、1つだけここに書き残そうと思います。

←お誕生日おめでとう〜。盛りだくさんの週末でした。これは土曜日の前夜祭。

ケヴィンのパパがパンケーキの名人、というのは以前にも書きました。彼には「誕生日にかわいい息子にぜひパンケーキを焼いてやりたい」という強い思いがありまして、日曜日ケヴィンがスノボに出発する前にパンケーキでお祝いをすることになりました。私がパパを起こしたのは5時45分。ちなみにその前の晩は夜中の2時に夏時間に変わったので、実質4時45分。まだ外は真っ暗。

この日のパンケーキは、4つのグレインを混ぜた粉に、ヨーグルト、バターミルク、ブルーベリーが入ったフワフワのパンケーキ。迎えに来た友達は我が家がこんな状態になっているのに驚きつつ、一緒にパンケーキを楽しみました。

両親は昼頃に帰ってしまい、みぞれと雪が混じる天気と睡眠不足でウトウトしている私に、スキー場にいるケヴィンからの電話。「今夜XXとXXをうちでのディナーに誘ったけど、大丈夫でしょう?奥さん同士3人で連絡を取り合って話してねー。ケヴィンも手伝うから」。最後まで気が抜けない私でした。

誕生日直前のハプニング

日曜日はケヴィンの誕生日でした。ご存知の通り出張が多いので、最近はぎりぎりにならないと予定が立たない中、先週あーだこーだと言いつつ予定を立てようとしていました。この時期の難しいところは「できるだけ週末はスノボをしたい」という彼の姿勢で、元旦以来会っていないケヴィンの両親がせっかく大切な息子のために(2時間もかけて)ボールダーにやって来ると言うのに、それでも彼は「今週山で雪が降ったら週末はスノボに行きたい」と強気に言うのでした。

で、木曜日になってやっと妥協策が決まり、「土曜日は両親とボールダーで過ごし、日曜日はケヴィンは男友達と山でスノボ、私は家に残って昼までケヴィンの両親と過ごす」ということになりました。

金曜日の1時過ぎに出張先のフロリダから「大雨のせいで飛行機が2時間も遅れてるー。ついてないー」と、うんざりした声で電話がかかってきました。本当は彼の両親が金曜日のうちにボールダーに来る、と言っていたのを結局土曜日の朝着にしておいてよかった、と思いつつ外出。その後、ケヴィンは乗る前に電話すると言っていたのに、ふっと気づくと連絡のないまま5時。おかしいな、と思いながら電話をしてみると、驚いたことにまだ呼び出し音が鳴る。「まだ乗ってないのー?!」と出たケヴィンに聞くと、「乗れなかった」とポツリ。

なんとゲートに3時間もいながら、ケヴィンは自分のフライトに乗り遅れていたのでした。

ゲートの表示はまだデンバーとなっていたものの、おかしいと思ってカウンターに行ったら「もうその便は出発しましたよ」と言われ愕然。ダイヤが乱れ大混雑の空港で、いつものように携帯とコンピューターを駆使して仕事をする隙に、そのフライトはケヴィンを置いて行ってしまったのでした。「航空会社はちゃんとケヴィンを探す努力をしたわけ?文句言った?」と聞くと、ちゃんと呼び出しはされたようで、その上係員に「乗らなかったのはあなただけですよ」と言われて、さすがのケビンも閉口だってらしい、、、。

そんなわけでその日はフロリダに延泊になり、彼を迎えに行く必要のなくなった私は、そのまま友人とディナーに流れてワインを飲み、更に場所を変えて優雅にデザートまで食べて夜10時すぎに家に帰ったのでした。はは。

誕生日のレポートはこの後に続きます。こっちもドタバタ。

2010年3月9日火曜日

全米一幸せな人が多いのは、コロラド州ボールダー !?

ちょっと前の話になりますが、2月に発表された最新世論調査の結果、全米で健康で幸せだと感じる人が最も多く住んでいるのは、コロラド州ボールダーであることがわかったそうです。USフロントラインの記事

これは「ギャラップ・ヘルスウェイズ幸福度指数」というものを使い、仕事や財政状態、健康、精神状態、コミュニティについて、毎週全米で1000人を対象に調査し、2年間強で合計35万3000人を対象に尋ねた結果をまとめたものだそうです。

この調査でされた質問は、「今日たばこを吸いましたか?」「あなたは自分の仕事が好きですか?」「あなたは今自分が苦境の中で頑張っていると思いますか?」というように、健康管理、仕事の環境、自分の人生についての評価などの質問と、食生活、住環境、ヘルスケアなどの生活のベースになるものの組み合わせとのことです。

ボールダーは2008年の9位からの急上昇。ちなみに上位10都市は以下の通りで、さすが10都市中4都市はカリフォルニアです。

1:コロラド州ボルダー
2:ミシガン州ホランド=グランドヘブン地域
3:ハワイ州ホノルル
4:ユタ州プロボ=オレム地域
5:カリフォルニア州サンタロサ=ペタルマ地域
6:カリフォルニア州サンタバーバラ=サンタマリア=ゴレタ地域
7:カリフォルニア州サンホゼ=サニーベール=サンタクララ地域
8:ワシントンDC=バージニア州アーリントン=メリーランド州=ウェストバージニア州アレクサンドリア地域
9:ユタ州オグデン=クリアフィールド地域
10:カリフォルニア州オクシナード=サウザンドオークス=ベンチュラ地域

幸福度の高い州としてのランキングではコロラド州は7位で、前年の4位から若干ダウン。

地元の人のコメントの中には、こんなのも。

"Even if you're not health conscious, you're seeing cyclists by the side of the road with their work stuff on their back, or health-food stores on every corner, or everyone driving a Prius" (「別にそこまで健康のことを意識していなくても、ここに住んでいると自転車に乗って通勤する人が車道の横を走っているのをしょっちゅう目にするし、ヘルシーフードの店はあちこちにあるし、走っている車はプリウスだらけですしね」)

そう、まさにこれがボールダーなのです。ここに集まって来る人々はこの環境が好きで来る人が多いので、似た者同士だらけなのも住みやすい理由の1つなのかもしれません。

2010年3月7日日曜日

日本と日本のイルカの行く末 5 <ザ・コーブ>

実は10日程前に『ザ・コーブ』のスクリーニングがボールダー市内で行われました。映画上映後、会場に来るクルー達との質疑応答があるというので、すでにこの映画を2回観ていたのですが興味があるので行ってみました。実際に太地町に行ったクルーにいろいろ質問をしてみたかったのです。

会場に集まったのは多くて100人強。私はそれまでDVDでしか観ていなかったので、公共の場でこの映画を観るのは初めて。映画上映中に日本人の私が若干不機嫌になる場面(イルカ擁護派の私でも、多少ムッとくる場面はあるのです)で、後ろの人から笑い声が上がったりすると、受け止め方の違いをひしひしと感じながら3度目の鑑賞をしたのでした。

映画の後にステージに登った4人のクルー達に盛大な拍手が送られました。まず彼らが体験談と感想を簡単に述べた後質疑応答へ。さすがアメリカ人、あちこちでぱっと手が挙りました。質問の内容も「映画公開後の日本政府の反応は?」とか「日本で他にもイルカ漁をしている土地はいくつかあるようですが、なぜわざわざ太地町へ?」と、なかなかまともなものが多く、クルー達からもこの映画が太地町に与える影響を心配したコメントもありました。

10人程が一通りの質問を終えた後、やっと私にも発言できるチャンスが回ってきました。自分が日本人だということを述べた後、クルー達が撮影前にどのように太地町にアプローチし、どのような交渉をし、そしてこのような結果(強行な撮影方法)になってしまった経緯を尋ねてみました。あと、会場にいるアメリカ人に、日本にはアメリカほどアクティビズムが存在せず、自国批判にも繊細なことも強調しました。

クルー達から、立ち入り禁止区域に入る許可を取ろうとして失敗したことや、言葉の壁の苦労などが説明された後、私を驚かせる事実が浮上。なんと通訳が始めの2週間しかつかなかったと言うではないですか。そして「多分太地町の人達には、私達が実際に何をしているかはわからなかったと思います。」という発言。

さすがの私も、「うーん、これでは地元との間に亀裂が生じても仕方がないかもしれない」と思い始めたのでした。当然のごとく、更にこの舞台裏を知りたくなったので、その後30分ほどクルー達と会話をし、結局、その1人で2006年から2年の間に6回太地町に行ったというプロダクション・コーディネーターに近々直接会って話を聞くことになりました。

実はこの映画を作ったOPS(海洋資源保護協会)はボールダー市内に拠点を置く団体で、このスクリーニングの時に「ボールダーに是非オスカー像を持ち帰りたいと願っております」と言っていましたが、今夜それが現実となり、私自身も驚いているところです。

クルーの話を聞いた後、その結果はまたお知らせしたいと思います。

2010年3月5日金曜日

こんなになっちゃった〜(涙)

みなさまにご心配をおかけしているアシャ。スカンクにスプレーされた後、かちかちに凍った雪に顔をこすりつけた跡はこんなです。かわいそうに。。昨日から今日にかけてひどくなったようなので、今朝獣医に連れて行きました。薬を塗っても場所柄舐められて終わり、という感じですが、しばらく様子をみます。

ところで脱臭液のせいで、毛が脱色されてやや茶髪になってしまった彼女。耳の先や頭の上の方が「コギャルみたい」とケヴィンは言うのですが、これってもう死語かしらん?

2010年3月2日火曜日

トラウマになりそうなほどの臭い

もうキョーレツです。言葉で表現できない程の悪臭。。。

アシャがまたスカンクにやられました。昨日ケヴィンがアシャを連れて林の中を走っている時に、スカンクのお尻がアシャの顔を直撃。アシャは狂ったように顔を固くなった氷の上にこすりつけたようで、かわいそうに、鼻と唇の上を傷だらけにして帰ってきました。雪には傷口から出た血が染み込み、しばらく目も見えなかったみたい。おお〜(涙)

そんなわけで、前回(初回)は私は居なかったのでケヴィンが1人で対処したのですが、今回ついに私もこの臭いを経験しました。事態を聞き、アシャの様子を見に咄嗟にフロントデッキに出たものの、あまりの臭いで吐きそうになりました。かわいそうなのでかまってあげたいけど、とりあえず大量におやつを置きアシャの気を紛らわせ、ピタっとドアを閉めてガラス越しに様子を見るのがやっと。

私がくらくらしている間にケヴィンはオンラインで脱臭の仕方をチェック。過酸化水素水、ベーキングソーダ、食器洗いの洗剤を混ぜ合わせた液体を作り、それで臭い部分を擦り10分間そのまま置き、その後シャンプーをしにお風呂へ。トマトジュースがきくという話もありますが、それはどうやらデマのようで、この脱臭液の効果は大でした。

昨晩はそんなで我が家は大騒ぎでした。

スカンクというと、マンガで逆立ちをしてオナラをする姿が印象深いのですが、この臭いは一般的に想像するオナラの臭いとは全く違います。ガスというよりはゴムや金属が焦げたような強力な異臭です。しかも脱臭しないと1週間単位で残るという威力を持っているようです。(以前にも書きましたが)ウィキピディアではスカンクの特徴的な行動をこのように説明しています。

『スカンクは分泌液を放出する前に、前足で地面を叩いたり尻尾を立てて肛門部を相手に見せたりするなど、特徴的な警告動作を行なう。 警告が無視された場合、スカンクは肛門傍洞腺(肛門嚢)を取り囲む筋肉を収縮させることによって分泌液を相手の顔を目掛けて噴射する。これは4~5m離れていても命中させることができる。分泌液が目に入った場合、一時的に目が見えなくなる。 悪臭は無風でも半径1kmの範囲まで届き、風向きによっては2km近くまで届く。分泌液は皮膚の蛋白質と強く結合するため、皮膚に付着した分泌液を取り除くことは困難である。また、分泌液が付着した衣服は脱臭が困難なため、破棄せざるを得ない。 肛門傍洞腺(肛門嚢)には5~6回分(およそ15cc)の分泌液が蓄えられている。空になった肛門傍洞腺(肛門嚢)に分泌液が再充填されるには、およそ一ヶ月程度必要である。 スカンクはこの臭気のため敵と対峙した場合、逃走することは少ない。そのためたとえ対象が自動車であっても警告動作を行い、その結果轢死するも多い。』

スカンクは見えないところでアシャに向かって警告動作を行っていたのでしょう。。。