ネット上では「#わきまえない女」という、思わず「お見事!」と言いたくなるハッシュタグ付きで、様々な意見や経験が飛び交っているようですね。張本人は謝罪をして発言を『撤回』しましたが、日本社会で今まではびこってきた男性の意識がうっかりと世界に向けて発信されてしまい、ジェンダーギャップ153カ国中121位の現実の氷山の一角を、世界に見てもらう良い機会になったのではないかと、私は個人的に思っています。
批判が収まらないのを見かねたIOCが、9日に改めて声明を出したようですが、当初あっさりと「この問題は終了したと考えている」と発表した点には私は首を傾げました。オリンピックには、恐らく目に見えない様々な利害が複雑に絡まっているのでしょう。
いつもの癖で「どうせ上は何も変わらないのだろうな」と思っていたので、その後何百人もの五輪ボランティアが辞退したという報道を見て、そういう形の抗議に一筋の光を見た思いです。しかし、この失言に続く失言。空気が全く読めていないどころか、読む気すら見えない。今までそれが容認されてきた社会構造、そして差別を温存する笑い声を想像し、そんな中で頑張っている女性議員や委員の方々に心から同情します。
悲しいことに私のような一般的な中年女性が若かった頃は、当時インターネットがなかったこともあり、不公平を感じつつもそれに立ち向かうよりも、むしろ無駄な労力は使わずに、男性を適当に引き立てて自分達ができるだけ損をしないように立ち回る、もしくはそれを逆手に取る、という処世術を身につけてしまいました。しかし今回のようなケースを見ていると、「もしかすると何かが動くかも?」という淡い期待が湧いてきました。
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何年か前にこちらのNPRというパブリック・ラジオで、ゲストスピーカーが日本についての話をしていて、その中で「現在日本における男女格差は、まるでアメリカの1950年代のようです」と言っているのを聞きました。
1950年代って一体どういう時代?
思いつくことは、朝鮮戦争と戦争特需、小津安次郎の「東京物語」くらいしかなかったので、試しに「1950年代の流行」を検索してみました。
1950年:ビニール・レインコート。ブレザージャケット。ネッカチーフ、チラリズム。
1951年:第1回NHK紅白歌合戦(ラジオ)。LPレコード。ソフトクリーム販売。
1952年:カブ[ホンダ]販売。流行通信が創刊[日本織物出版社」。国会中継の放送開始。公衆電話が登場。鉄腕アトム連載。
1953年:テレビ放送スタート。「おこんばんは」トニー谷。オロナイン軟膏。お茶づけ海苔。 NHK紅白歌合戦 。クリスチャン・ディオール来日。 日本初のスーパーマーケット紀伊国屋開店。
1954年:第1回モーターショー 。サブリナパンツ。ゴジラ公開。
1955年:高度成長期突入。「三種の神器」電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビジョン。歌声喫茶。
1956年:シンタロー刈り。太陽の季節(石原裕次郎・日活)。ケ・セラ・セラ。
1957年:ホッピング(玩具) 。犯罪専用電話「110番」が全国に拡大。
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日本を出て21年、カリーナが生まれてから10年。アメリカとイギリスで生活し、子供をアメリカの公立の学校に通わせる中で、ずっと当たり前だと思っていたことが実はそうではないということが結構ある、ということに徐々に気づき始めました。
私が公立の学校教育を受けた昭和50年代から60年代は、学校で出席を取るときは男子から始まり次に女子という順番でした。卒業証書を受け取る時なども、まずは男子そして女子が続いたのだと思います。
→思えば、小学生の時点で「男子の方が女子よりも立場が上だ」という意識が、私の中に自然と芽生えていた気がします。それはつまり洗脳ではないでしょうか?
中学高校になると、女子が家庭科をやっている時に男子は木工をしていたり、男子が柔道をしている時に女子はテニスをするというように、男女が分けられることが増え、男性らしさと女性らしさの押し付けが更にはっきりしてきました。(*どうやらこれは63年に改定されたらしく、現在は男子も家庭科を、女子は技術の授業もあるようで何よりです。)
→高校1年生の時に、学年全体で2泊3日で浅間山にキャンプに行った時、男子に重いまな板やキャベツを運ばせ、横でふざけて遊ぶ男子を横目に女子がカレーを作りました。今の私なら自分でまな板を担ぎ、男子にも料理を手伝わせます。
大学生になると、サークル仲間でスポーツ観戦等の恒例のイベントがある時は、場所取りをする男子のために女子がお弁当を大量に作って持っていく、ということが慣例になっていました。
→そこで女子力を発揮する先輩達の姿を見て、年上のお姉様方は素敵だなと思う自分がいました。
これが社会人になると、総合職と一般職の区別化、職場でのお茶汲みや給湯室の掃除当番は女性社員にしか割り当てられませんでしたが、それを当たり前と思い「男性も当番に混ぜて欲しい」ということすら考えたことがありませんでした。
→ロンドンで働いたオフィス2ヶ所では、男性が自分でミルクティーをいれていました。
東京で私がいた場所は女性が多い職場で、社内での地位こそは低かったものの、ある程度の仕事を任されて課を上手く回していました。時々顧客からクレームがあり「(女の)お前じゃ話にならないから上司を出せ!」(←上司が男という前提)と言われた時は、問題が上司のところに行く前に体を張ってなんとかここで解決させようと、同期の男の子を上司と偽り電話口に出して危機を乗り越えたものです。「本当に馬鹿にされているよね」と同僚と憤慨しつつ、仕方ないと諦めていました。
蛇足ですが、「これももしや差別的ではないか?」と思い始めた日本文化の1つ、それは夫婦茶碗のサイズです。調べてみると由来は江戸時代の「決まり採寸」のようですが、これも「女性は弱い」という文化の現れではないかと思いませんか?どこの文化で男女の皿のサイズが違うのか、もしそういう国があったらどなたかぜひ教えてください。
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’86年夏から1年間アメリカの高校に留学しました。ホストファミリーにお世話になりながら、外国人なんて滅多に来ない田舎の学校に通いました。そこでの数々の驚きは今でもたくさん記憶に残っていますが、まず感心したのは学生達が学年・男女分け隔てなくいい感じに混じり合って学生生活を送っていることでした。日本語のように敬語の使い分けが難しくない英語の特徴でもありますが、生徒が先生に対して同等の言葉づかいで遠慮なく意見を言い、優秀な生徒が時々先生を言い負かしている姿にも驚きました。
そんなカジュアルな雰囲気の中でもいざという時、例えば時々ある学校のダンスパーティーや、ホームカミング、プロムなどの大イベントでは、男子が女子を紳士的にエスコートする姿も印象的でした。
生まれて初めて女性のスクールバスドライバーを見たことも、私にとっては衝撃的なことでした。
大人になってこちらに移住してから有り難く思うことの1つは、女医が多いことです。我が家のファミリードクターはずっと女医さんですし、妊娠中にお世話になった産婦人科も4〜5人の先生でクリニックを回していましたが全員女医。帝王切開をしてくれたのもそのうちの1人でした。一昨年五十肩でお世話になった外科医や、時々行く内分泌科の先生もみんな女性です。
日本では小学生から社会人まで、健康診断の時にずっと上半身を裸にされていましたが、こちらに来てからあれはセクハラだったということを悟りました。アメリカ人の女医さん達は、聴診器を当てる時に誰もそんなことをしないからです。カリーナにそんな話をしたら、目を剥いて驚くことは確実です。そんなことからも、こちらの子供達は小さい頃から自然と女性の権利を学んでいるのです。
アメリカでもそれなりに女性出世の妨げになる壁というものは存在し、最近日本でも聞く表現ではないかと思いますが、それはグラスシーリングと呼ばれています。それでも私くらいの年齢になると、会社でエグゼクティブのポジションで活躍している女性の友人も少なくありません。
やや話は逸れますが、ある日本人の友人が、20年以上昔に同僚に「あいつは女のくせに俺より多い給料をもらっている」と言われて、彼女が上司にあまり深く考えずに「あの人が私をビッチと呼びました」と言ったら、その同僚は速攻でクビになって驚いた、という話もあります。
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私の母は、「鉄の女と呼ばれるサッチャーさんのように、強い女になりなさい」と、よく言っていました。NHKの放送終了時に流れるこの映像(検索したら出てきてびっくりです)を見ながら、「日本はこんなに小さな国だから、将来広い世界を見に出て行きなさい」というような要旨のことを言われたことも覚えています。(←幼い頃、父が出張で留守の時は遅くまで起きているのを許されて、嬉しかった記憶があります。)男兄弟もおらず、家の中ではジェンダー格差を全く感じないでそんな母に育てられたことは、今考えると幸運だったと思います。
アメリカ同時多発テロ事件の後、私はケヴィンに「チカは怖いから『奥様・ビン・ラディン』だよ(上手い!😂)」と命名されてしまい、しかも今や私に加担する娘まで増えてしまいました。強い女と怖い女の違いは教えないといけませんが(汗)、カリーナには私よりも強くて、どこに行っても女性のわきまえなんて気にせずに、堂々と生きていけるような人間に育って欲しいと切に願います。
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