6月まで勤めていた以前の職場を介して知り合った多くの人の中に、スズキさんのおじいちゃんとおばあちゃんがいます。どこに行くのもいつも一緒のおしどり夫婦。秋になると山で採ったマツタケをくれたり、クリスマスには手作りのジャムをくれたりと、とてもよくしてもらいました。ところがおばあちゃんが3月に93歳の誕生日を祝った直後に、急に亡くなってしまったのです。その後肩を落としたおじいちゃんのところに時々通うようになって、初めて2人の歩んできた人生について知りました。
メリーさんは日系2世としてカリフォルニアで生まれました。両親は農業を営んでいたのですが子供を残して早く亡くなってしまい、子供達はみんな孤児院で育ちました。学校を卒業してNYに渡りそこで日系の商社や領事館で秘書として働きました。オペラが好きで、チャンスがあると後ろの方の席でしたがオペラ鑑賞を楽しんだとか。テニスの腕もなかなかだったようです。
教会の聖歌隊を通じてのボランティア活動で、エリスアイランドにある刑務所に行ったのがきっかけで、ノブエさんに会いました。彼もアメリカ生まれの日系2世ですが、高校を卒業後日本に渡り東工大で機械工学を勉強し、NYで日系の会社に就職しました。太平洋戦争が勃発すると、その会社が零戦などを作っていたためスパイ容疑でエリスアイランドの刑務所に拘留されました。
メリーさんが獄中のノブエさんに持っていった本の中に、アメリカ国憲法の本がありました。それがきっかけで、大学教育が日本で日系の会社に勤めていたとしても、アメリカ人であるノブエさんが日本政府のスパイとして拘留されるのはおかしいという事実に気づき、その結果数年後に晴れて釈放されることになったそうです。アメリカ政府が、ノブエさんが東海岸の指定された州には二度と入れないという条件で好きな都市への片道航空券を用意する、というので、以前旅行していい思い出のあったシカゴを選びました。メリーさんも一緒にNYを発ちました。拘留時にすべてを取り上げられたので、その時のノブエさんの全財産はアメリカ政府から支給された二十数ドルでした。
そこで子供が2人生まれ、ノブエさんは5年ほどシカゴ大学で仕事をしていましたが、ボールダーに住んでいたメリーさんの妹に、子育てをするのに環境がいい、と引っ越してくるように勧められボールダーに移っって来ました。1953年のことだそうです。その後デンバー大学で働いたり、市内の政府系の組織で働いたそうですが、ジョゼフ・マッカシーの反共産主義者運動のもとで危険人物としてリストアップされた為に仕事を失い、その後数年間はそれが理由で仕事がみつけられなかったそうです。
ノブエさん曰く「メリーは、"終わったことは仕方がない。前を向いて生きていかないと″といつもサポートしてくれました。」メリーさんはウェイトレスをしてノブエさんが仕事を見つけるまで一家を支えたそうです。
メリーさんはとてもチャーミングなおばあちゃんで、93歳のお誕生日と聞いた時どう見ても85歳くらいにしか見えなかったので驚きました。アイスクリームをうれしそうに食べて手を振ってさよならしたのが、永遠のお別れになってしまいました。
連れ添って60数年。メリーがいなくなって本当に淋しい、と一人で暮らすおじいちゃん。「メリーは本当に心の優しい妻で、母で、おばあちゃんでした」と話すノブエさんの姿を見ながら、うーん、もし私が先に死んでも、ケヴィンにそう言ってもらうにはケヴィンに意地悪しすぎかな、と思う私がいるのでした。